橋場線探訪 前編 (秋田国体遠征12)

赤渕の保線車輌と701系。
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何両かはここで折り返すようです。

駅舎はなく、駅入り口はこんな感じ。
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こんなところを新幹線車輌が走るというのだから驚きです。

列車を降りたあたりから雨がぱらぱら。
嫌な天気だなぁ。

国道の跨線橋から赤渕駅を望む。
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雨がぱらぱらからしとしとへと変わってきました。
これはマズイ、と思うものの、こんなところに来るチャンスはそうそうありません。

何せここは東北・岩手県
兵庫県は神戸から、ちょっと廃線跡を見に行こうかなんて距離ではないのです。

多少の雨は気にせず突き進むことにしました。

今回の目的地は国鉄橋場線の終着駅、橋場駅。
今は田沢湖線と名前を変えている、ここまで乗ってきた路線のかつての終着駅です。

ゆくゆくは岩手秋田の県境、奥羽山脈に隧道を通し、
秋田側の生保内(現在の田沢湖駅)まで開通していた生保内線とつないで、
盛岡~大曲を結ぶ鉄路の一部となるはずの駅でした。

しかしこの運命を変えたのが太平洋戦争でした。

後は仙岩峠を越えるだけ、というところまで来ていた田沢湖線
まず生保内側からの工事(生橋線)が生保内から6kmほどの地点まで進んで中止。

さらには橋場線の雫石から橋場までの区間が不要不急路線に指定され、
線路は当時軍事的に重要であった釜石線の建設に利用され、橋場駅も休止されてしまいました。


そして戦後。
建設中止となった生橋線、そして休止された橋場線を再び建設しようという気運が高まり、
この地に鉄路が戻ってくることとなる、はずでした。


結論から言うと、橋場駅に再び鉄路が帰ってくることはありませんでした。

当時、新線建設には国から補助金が出されていました。
当時の盛岡管理局は戦前の計画を変更し、かつての橋場線を復活、ではなく
補助金を得るために雫石~赤渕間を新線として開通させることにしたのです。

さらに生保内線のルートも橋場~生保内から、雫石~生保内に変更。
当初の計画では現在の国道46号線に沿ったようなルートだったそうですが、
生保内からの路線は橋場ではなく、真っ直ぐ赤渕を目指すルートへと変更され、
赤渕から橋場の間に線路が敷かれることはなくなったのです。

こうして赤渕~橋場間は完全に放棄され、岩手の山の中にわずかな距離の廃線跡が誕生したのでした。


その後全通し、田沢湖線と名を変えたこの路線が標準軌に改軌され、
秋田新幹線として華々しくデビューしたのも懐かしいところです。

しかしその華々しさの一方で、橋場線の扱いはまるで忘れ去られたかのようでした。
何せ、休止された1944年から2007年の今に到るまで、正式に「廃止」が宣言されていないのです。

しかし現在も休止中か、というとそんなことはありません。
あくまで正式に「廃止」が宣言されていないだけであり、
国鉄からJRに移管されなかった時点でこの路線、そして橋場駅は廃止されたということになっています。

詳しくはWikipedia:橋場駅山さ行がねかを参照してください。
特に山さ行がねがの方はおススメです。 今回の探訪に関して大いに参考にさせていただきました。


さて前置きが果てしなく長くなりました。
今回目指すのはその放棄された終着駅、橋場!

よっしゃ行くぞー!、と気合を入れて歩き出したはいいですが…

雨がザザ降りになってきました…
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国道から赤渕駅を振り返って。
65年ほど前にはこの景色の中に線路があったはずですが…
既にこのあたりは何も無いようです。


国道から線路があったはずの右手を。
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民家の裏手、ネットの向こうに平坦なスペースが存在するようにも見えますが…
果たしてこれは遺構なのかどうか。

雨がさらに強くなってきました。

着替えた後の服を入れた衣類圧縮袋を頭の上に掲げ、
さらには一度着たTシャツをその上に被せるようにして少しでも雨を防ぐという不審極まりない格好で先へ。


ここまで来て多少の雨くらいで引き下がれるかい。


しばらく歩くとどうやら路盤跡らしきものが見えてきました。
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右の民家が立っている場所が築堤跡に見えるんですが。
前後の様子もなんか線路跡っぽいです。

でも多少地形が改変されてるような気もします。

ていうかなんか平場が見えたらもう廃線跡に見えそうな勢いなんですけども。

全体に写真の質が低くて申し訳ないです。
日の出直後の雨降りということで写真撮るには最悪でした。


さて、線路跡(?]が見え、雨でビチャビチャに濡れて下がったテンションもまた上がってきました。
橋場駅はもうすぐです。



続く。