【東海道線旧線】 旧逢坂山隧道

今回の目的地はタイトルにもあるとおり、東海道線の旧線、旧逢坂山隧道。


日本初の山岳隧道であり、またほとんど日本人が独力で完成させたという
日本の鉄道技術史上非常に高い意義を持つ存在であります。

現在は東の坑口が残るのみですが、それらの説明は後ほど。


京阪上栄町駅を降り、京都方へ向かいます。
途中東海道線と京阪京津線との交差地点にはこんな橋梁(隧道?)が。
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現在線との交差ですが、こちらも開通は1921年と歴史は古く、
中々見ごたえのあるレンガ構造物が残っています。

ちなみに一番手前は1944年開通の増設線。
年代によってまったく施工内容が違いますね。

さらに先に進み京津線の踏切を渡ると東海道線の跡と交差します。
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撮影している立ち位置、ここがまさに東海道線跡。
鮮明な写真を掲載できないのが心苦しいんですが、写真右に写っている白い建物の基部がまさに橋台跡です。
巨大なレンガ積みの橋台がそのまま残っています。

「観光船乗り場」と書かれた看板の右側ですね。


そしてこの交差地点から少し京都方に今回の目的地、旧逢坂山隧道があります。
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左側が初代逢坂山隧道。
右は初代に遅れること18年後に完成した複線化上りトンネルです。既に入り口から塞がれています。

初代逢坂山隧道も、現在は京都大学が設置した地震計への通路として東口が残るのみ。
西口は名神高速道路の工事により地中に埋没しており現存しません。


入り口手前にはJR西日本による看板が立てられていました。
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看板の日付は平成20年3月。かなりに最近立てられたもののようです。

坑門上部には太政大臣三條実美の筆による石額が。
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「楽成頼功」の4文字。
本来「落成」とするところを、
「落」の字はやはりトンネルでは縁起が悪いということで「楽成」に変えた。
そんな逸話もあるそうです。

ちなみにこのトンネル日本初の山岳トンネルでありますが、
それと同時に日本初のトンネル工事による犠牲者が出た場所でもあるとも言います。

落盤事故の発生により5人が生き埋めとなり犠牲になったのだとか。

縁起が悪い、とされたのはただ文字の意味だけでなく、
そんな事情も関係していたのかもしれませんね。



古くから交通の要所であった逢坂山、
現在も狭い谷間を鉄道・道路が窮屈に抜けていきます。

あまり、というかほとんどといっていいほど人通りはありませんでしたが、
まぁたまには遠い昔に思いを馳せてちょっと散歩でもしてみるのも楽しいかもしれません。



何を言うとるんでしょうね。

とりあえず次回は普通に旅行記で更新します。