そのため廃止間際までまるで時間が止まったかのような空間が残っていたそうです。
まぁ廃止は昭和59年なので、61年生まれの自分にとっては知ったこっちゃねぇってな世界ですが。
ちなみに廃止の理由は貨物取り扱いの中止。
生命線を失ってしまっては、到底「ついで」であった旅客輸送だけでやっていけるわけは無かったのです。
生命線を失ってしまっては、到底「ついで」であった旅客輸送だけでやっていけるわけは無かったのです。
ひとまずまずは土山線のほうから順に見て行きたいと思います。
訪問は2007年10月29日。既に半年近く前ですね。
訪問は2007年10月29日。既に半年近く前ですね。
よろしければこちらも参考にしていただけると少し分かりやすいかと思います。
土山から姫路方に少し歩くと、早くも別府鉄道の名残りが見えてきます。
線路を越える陸橋。
山陽線だけを跨げばいいところを、なんでもないような歩道まで一緒に超えています。
かつてここにも線路が通っていたという証ですね。
線路を越える陸橋。
山陽線だけを跨げばいいところを、なんでもないような歩道まで一緒に超えています。
かつてここにも線路が通っていたという証ですね。
遊歩道はマンションの前を緩やかに左に曲がっていきます。(地点A)
こうやって見るととても線路跡とは思えない光景ですね。
こうやって見るととても線路跡とは思えない光景ですね。
しばらくは普通の遊歩道を歩くのと全く変わらない風景が続きます。
たまにかつては踏み切りだったのではないか、
というところに差し掛かるものの、特に遺構らしきものも見当たりません。
あんまり面白くないですね。
というところに差し掛かるものの、特に遺構らしきものも見当たりません。
あんまり面白くないですね。
途中大中遺跡の手前では地形が完全に改変されています。
本来は直進していたはず…
本来は直進していたはず…
河川改修と共に新たな橋も架けられ、かつての雰囲気は完全消滅しているようです。
もともとの橋梁は、
恐らく対岸の橋のたもとから、写真右下あたりに向けて伸びていたのではないかと思われます。
もともとの橋梁は、
恐らく対岸の橋のたもとから、写真右下あたりに向けて伸びていたのではないかと思われます。
橋の名前はふるさと橋。
欄干の一部を叩くと音が鳴り、順番に叩いていくと「ふるさと」のメロディになるようです。
要するに鉄琴ですね。
欄干の一部を叩くと音が鳴り、順番に叩いていくと「ふるさと」のメロディになるようです。
要するに鉄琴ですね。
遊歩道は大中遺跡の中を突っ切って行きます。
この大中遺跡は昭和37年に播磨中学校の生徒により発見されたそうです。
多くの住居跡とともに土器、鉄器、砥石、そして貝殻や蛸壺、
更には中国との交流を示す分割鏡までもが発掘されたとか。
この大中遺跡は昭和37年に播磨中学校の生徒により発見されたそうです。
多くの住居跡とともに土器、鉄器、砥石、そして貝殻や蛸壺、
更には中国との交流を示す分割鏡までもが発掘されたとか。
歴史的に非常に意義のある遺跡なのですが、
そこをぶった切って鉄道が走っていたというのはなんとも不思議な感覚です。
そこをぶった切って鉄道が走っていたというのはなんとも不思議な感覚です。
古くから耕作時には土器片などが出土していたということなので、
別府鉄道敷設時にも当然何かしらは出土していた事でしょう。
別府鉄道敷設時にも当然何かしらは出土していた事でしょう。
まぁその辺は当時と今の感覚の違いですよね。
色褪せた案内板にも別府鉄道の文字が。
ちなみに遺跡内の郷土資料館には機関車と客車が1両ずつ保存されています。
普段は鍵がかかっていますが、郷土資料館のほうに申し出れば車内の見学も可能なのだとか。
普段は鍵がかかっていますが、郷土資料館のほうに申し出れば車内の見学も可能なのだとか。
ちなみにこの日は休館日でした。なーんじゃそらー。
この先もわずかな遺構を追っていきます。
続く。