怒りを勢いに変えて   姫路市営モノレール跡を訪ねて その1

7月のある日。
この日は、というかこの月は大変でした。

序盤に沖縄旅行、そして先日の長野旅行と連休を取っていたこともあり、
ただでさえ勤務は休みなしの苦しい感じ。

さらにはそこに踏切事故対応、台風対応まで加わりもう疲労困憊。

そこに業務研究会の資料作りなんてもんが飛び込んでくるもんだから、
仕方なく泊まり明けに居残って作業をしていたのです。

できることならさっさと帰ってしまいたいところ。
しかし資料作成のリミットも近く、このままでは翌日の休みにまでずれ込むかもしれません。

きつい勤務の中の貴重な休み。
そんな用事でつぶしたくはありません。


それだけを支えに作業を進めるも、時刻はすでに夕方過ぎ。
日勤の助役さんが帰り際に言い放ちました。

「もう明日出てきてやったらええやないかw」

カッチーン。

何かわからないけど。
何かが非常に癇に障りました。

貴重な休みを気楽に「潰せばいい」と言われたことが癇に障ったのかもしれません。

もうそこからは意地です。
何があろうと出て来てやるものかと。
休みなんだ、俺は遊びに行くんだ!と。

結局9時過ぎまで居残って作業を完遂。
大手を振って遊びに行く体制を整えてやったのでした。


そして翌日22日。
新幹線から姫路駅に降り立ったのでした。
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18きっぷ期間なのに新幹線利用なのもある意味意地。
というか朝しんどすぎて早起きできなかったのです。

それでも寮で寝てられるか!と。
まさに怒りのパワーを勢いに変えて飛び出してきたのでした。


姫路駅、もう駅ビルまで解体が進んでますね…
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あの駅ビルも結構好きだったんだけどなぁ。


ここからお城が見えます。
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見えませんけどね。
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現在姫路城は大天守修理中。
見えるのは天守を覆う素屋根と、それに描かれた城の線画のみ。

これはこれで貴重な風景かもしれませんけれど。


さて、駅前から久々に廃線跡をたどります。
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今回たどるのは姫路市営モノレール跡。

1966年、姫路市で開催された姫路大博覧会の会場の一つ、
手柄山までの交通手段の一つとして建設されました。

距離はわずかに1.6km。
起点こそ駅前直結であったものの、終点は博覧会が終わってしまえば公園の山の上。

さらには運賃も並行する山陽電鉄の姫路-手柄間よりはるかに高いとあり、
乗客数は開業前の予測をはるかに下回るペースで低迷したのでした。

高速走行が可能であるロッキード式の特性もこの距離では生かせず、
また先行開業であったはずのこの区間からの延伸も果たせず。

開業後5年で黒字を目指す、との計画だったはずの路線が、結局わずか8年で運転休止。

さらに5年後の1979年には正式に廃止されました。


そして残されたのは巨大な遺構。
解体には莫大な費用が掛かるとあり、廃止から30年以上たった今に至っても、
多くの遺構が姫路の街にその姿を残しています。


自分はこの路線を子供のころからよく目にしていました。
両親の実家である香川県に帰省する際、新幹線の窓からいつも見える不思議な建造物。

途中が撤去された軌道の一部でした。

それはまるで空へと飛びあがる線路のように見えていたのです。
そして当時はその反対にも軌道が残っていたため、
幼い自分はきっといつかあそこを列車が通過するのだと信じて疑いませんでした。

途切れた部分はきっとジャンプするのだろう、とw
今思えば、なぜあれを見て線路と思ったのか不思議でもありますが。


そしてそれが自分の生まれるはるか前に廃止になったモノレールであることを知ったのは大学生の頃。
その後2度ほど訪れていますが、一度はブログ開設前、
2度目は記事にせず、で、今回が初紹介となる模様です。


このあたりに起点の姫路駅跡があったとか。
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現在は山陽百貨店となっています。


西に進むとすぐに残存している軌道を見つけることが出来ます。
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家の上から橋脚が見えているのがわかるでしょうか。

何とも不思議な光景です。
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当然ながらこの橋脚は屋根の上に設置されているわけではありません。

地面から立った橋脚の周りに建物が建てられているわけです。
そのため家屋を解体しない限り橋脚の解体もかなわず。

そのままに残されているのです。


高架化も完了し再開発が進む姫路駅前。
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その駅前にこんな空間が残されたままなのが本当に不思議ですね。



ひとまずは順に廃線跡をたどっていきます。




つづく