変わらないことは幸せなこと

昨日に続いて今日もちょっと震災の話。
まぁ神戸市民がこの時期に話するのは多少しつこくても許されるでしょうw


震災については昨日、色々自分自身も書いたし、人が書いた記事なんかも読みましたが、
その中で改めて思ったのは「自分って恵まれてるなぁ」ということでした。


生き残ったから、というだけじゃありません。


自分自身は地震で怪我も何もありませんでしたし、自宅も一部損壊程度。
その上ライフライン停止中は香川の祖父母宅に弟とともに非難していたため、
大した被害というのは自分自身受けてないんですね。


皿を洗えないからラップ巻いて使ってたとか、
水が来ないから風呂も入れないとか、給水車まで水を汲みに行く(これは我が家はなかったそうですが)
なんていう震災時の苦労、というのは経験していないんです。


自分にとっての被害って言ったら、せいぜいお皿が大量に割れた程度のものでしょう。
そりゃ仮設住宅で公園が埋まって遊び場がないとか、
近くの道路が3年くらい異常に隆起したままだったとか、
生活に実害のないしょーもない被害ならいくらでも上げられますけどね。


実際のところ一番「恵まれてる」と思ったのは両親の職業ですね。
2人とも公務員。

これって凄く大きかったと思います。

仮に地元の一般企業だったらどうでしょう?
会社自体がダメになった可能性もあります。何せ被災地中心部は地獄でした。
ありえない話でもないのではないでしょうか。

仮にそんなことになったら一気に収入ゼロです。
生活していけません。被害を受けた時点でどうしたってお金が必要なのに。


もっと悪いパターン。
地元で自営業、しかも震災で店もろともダメになったら?


…こんなのもうどうにもならんでしょう。(もちろんこんなどん底から這い上がった人もいますが)


結局困るのって、非常時もそうだけど、「それ以後」もなんですよね。


いつまでも体育館なんかで生活していくわけには行かない。どこかで普段の生活に戻る時は来る。
でもそれって「タダ」じゃないんですよねー…
「当たり前」に戻るためには何か仕事をしてお金を得る必要がある、と。


もちろん生き残るに勝る幸福はないとは思いますが、
生きている、だけじゃどうにもならない問題って確かに存在するんですよね。


でも正直理不尽な話ですよね。
何にも悪いことしてないのに窮地に叩き落されて、挙句以前の生活に戻るには対価が要求される。


無茶苦茶ですよ。



その点我が家に関しては両親の仕事はなくなることはなかったわけで。


そう考えると、震災以前と震災以後と、大して生活の変わっていない自分はなんと幸せなのだろうと思います。

当たり前のように生きてきた。それが幸せだったということもあるんですよね。





あぁなんだか随分と気持ち悪い文章になった。
まぁ、神戸市民的にこの時期は仕方のないことなのですw