「○月限りで○○が消える」
いまどき珍しい話ではなくなりました。
いまどき珍しい話ではなくなりました。
ちょっと思い返せば少し前。
3月17日限りで名門特急「東海」が消えています。
3月17日限りで名門特急「東海」が消えています。
少しさかのぼれば神岡鉄道(18年12月1日)。
寝台特急「出雲」(18年3月18日)。寝台特急「彗星」(17年9月30日)などなど…。
寝台特急「さくら」(17年3月1日)あたりまでは記憶に新しいところでしょうか。
寝台特急「出雲」(18年3月18日)。寝台特急「彗星」(17年9月30日)などなど…。
寝台特急「さくら」(17年3月1日)あたりまでは記憶に新しいところでしょうか。
別に鹿島鉄道に対しての思い入れもありませんでした。
廃止反対、存続希望って言っても、採算が付かないんなら仕方ないじゃん。
もう何したって意味無いよ。
もう何したって意味無いよ。
本気でそんな感じ。
そんな気持ちで訪れた路線。
当然真面目に写真を撮るわけもなく、
もう既に日は落ちたから、という理由で列車に乗るでもなく、
ただ写真を適当に撮って終わりにするつもりでした。
当然真面目に写真を撮るわけもなく、
もう既に日は落ちたから、という理由で列車に乗るでもなく、
ただ写真を適当に撮って終わりにするつもりでした。
駅構内に並んだ車両たちを眺め
もうあるか分からない次回訪問時には無くなっているであろう表示などの写真を撮り
最後に陸橋から全体の写真を撮って終わり。
もうこんなところでやる気の糸は切れ、
後は夕食に、と立ち食い蕎麦に入る始末。
後は夕食に、と立ち食い蕎麦に入る始末。
まあ、愛着も何も無い人間の行動とはこんなものなのだろうと思います。
しかしそんな私でも立ち食い蕎麦屋の中で聞いた話には考えさせられるものがありました。
客の老婆と店員さんが談笑していますが、
話題は来月からの店舗(それも出来れば駅に近いところ)を店長が探している…とか。
話題は来月からの店舗(それも出来れば駅に近いところ)を店長が探している…とか。
「やっぱりしんどくなるよねぇ」
「今までだったらねぇ…
運転手さんに車掌さんに、乗り換えの時の学生さんとか来てくれてたけど、
それがみんな来なくなるんだもん」
「全然違うよね」
「そりゃそうよ。常磐線のお客なんて高が知れてるもん。どうにもならないよ。」
「今までだったらねぇ…
運転手さんに車掌さんに、乗り換えの時の学生さんとか来てくれてたけど、
それがみんな来なくなるんだもん」
「全然違うよね」
「そりゃそうよ。常磐線のお客なんて高が知れてるもん。どうにもならないよ。」
今まで思いもしませんでしたが、考えてみりゃつくづく当たり前の話。
鉄道が消える。それはただ地図の上、時刻表から線が消えるだけの話ではないんです。
その鉄道に関わってきた人の生活も一緒に消えてしまうんです。
鉄道が消える。それはただ地図の上、時刻表から線が消えるだけの話ではないんです。
その鉄道に関わってきた人の生活も一緒に消えてしまうんです。
さらに店員さんは話を続けます。
「高校だって無くなるでしょ。通学が出来なくなるから。」
「3つあったのが1つになるもんね。」
「もう新入生も受け入れて無いしね。今いる生徒さんだけで終わり。」
「3つあったのが1つになるもんね。」
「もう新入生も受け入れて無いしね。今いる生徒さんだけで終わり。」
…
最後に店員さんはしみじみと言いました。
「やっぱり鉄道って大事にしなきゃ駄目だよ。もう今さら遅いけど…」
「やっぱり鉄道って大事にしなきゃ駄目だよ。もう今さら遅いけど…」
そのうち話題は天気のこと、
孫のお弁当のことなんかに移っていったため、私は「ごちそうさま」を言って店を出ました。
孫のお弁当のことなんかに移っていったため、私は「ごちそうさま」を言って店を出ました。
なんとも言いがたい内容の話でした。
仕方ない、なんて言いはしましたが、
そんな鉄道が消えるのはやっぱりなんだか寂しい気もしました。
そんな鉄道が消えるのはやっぱりなんだか寂しい気もしました。